マイ・ストーリー(高校生、大学生編)

2022年6月16日

私の高校生から大学生時代について、
書きます。

小生、1977年(昭和52年)に
沼津市立沼津高校に入学・卒業しました。

沼津市立沼津高校は、戦後の混乱期にあって、
「日本を、そして沼津を立て直すには教育を
おいてほかにない 」という当時の
石内直太郎初代校長等の熱意のもと開校されました。

以来、困難に立ち向かう勇気と行動力を持つ、
たくましい個性的な人づくりをめざす象徴的な
言葉として、「求道(ぐどう)」を校訓と
しています。

男女共学で、比較的自由な雰囲気のある
学校です。

今は、普通科しかありませんが、
小生が入学した当時は、普通科(5クラス)の他に、
商業科(2クラス)、衛生看護科(1クラス)という
形でした。

当然、普通科は男女半々くらい、商業科は
90%くらいが女子、衛生看護科は、クラス全員が
女子でした。

1年生のときは3組で、担任は湊先生という
メタボリックの体型をした世界史の
先生でした。

1学期の中間テストが終わって、順位発表が
あった後、湊先生に職員室に突然呼び出され、
こう怒られました。

「お前の入試の成績は、一桁台の順位なのに、
今回の成績(30番代)は不甲斐ないね。
何やってんだ!部活に集中して、勉強しなかった?
次の期末は、ネジを巻き直して、頑張るんだぞ!」と…

部活は中学から続けていた卓球部に入部しました。

入試がそんないい成績だったとはつゆ知らず、
普通に勉強していたつもりでした。

1学期の期末テストは、頑張って勉強し、
10番代に入りました。

卓球部では、3年生が引退すると
追い出しコンパを開催するという
慣例があります。

今だから言えますが、一次会は某焼き鳥屋さんの
離れを借り、先輩からBやWをたらふく飲まされて、
沼津駅南口の地下道をみんなで歩き、
先輩の家へ行って、ゆっくりして帰りました。

2年生のときは4組で、担任は鈴木一行先生という
日本史の先生でした。

この時は、普通科は1年生から3年生まで
全員統一したカリキュラムでしたが、
進学校に移行するというお題目があり、
2ヶ月間の幻(暫定)のクラスでした。

普通科は理系・文系に分けたカリキュラムに
移行するということを1月の3月くらいに
説明がありました。

小生は、幻のクラスで、じゃんけんに弱かったという
運もあり、班長になったのはいいのですが、
またまた運の悪いことにじゃんけんに負けて、
学級委員長になってしまいました。

当時は、中だるみもあり、昼一番の午後の授業は、
たいへん眠く、特に英語の文法の授業のときなどは、
90%以上の生徒が寝ている状態でした。

この時の英語の文法の担当の先生は、後の3年生の
担任になる小林吉房先生でした。

この時は、ほとんど全員の生徒が寝ていて、
先生が教壇の上に置いてあったカセットレコーダーの
影で泣いていたというエピソードがあります。

さて、小生は理系クラスを選択しました。

2ヶ月たった後のクラス替えで、2組になり、
担任は今は亡き、数学担当の水上先生でした。

この時のクラスは、全員男子でした。

水上先生は熱心に数学ⅡB、数学Ⅲを
教えてくれました。

テストの集計は理系・文系分かれて行い、
順位も理系・文系で分けて、示されました。

いつも理系の1番は、カリキュラムの関係で
名古屋から転校してきた同級生で、小生は
いつも理系の上位にいました。

3年生が部活を引退すると、中学と同じく、
卓球部の部長を任(まか)されました。

3年生になると1組になり、担任は前出の
小林先生でした。

この時のクラスは、大部分が男子でしたが、
女子が3名いました。

部活も高体連が終わると引退ですが、
9月ぐらいまでは、卓球部顧問の先生の了解を得て、
後輩の指導をしていました。

授業は、教科書の内容は前日の夜予習し、
その後、ラジオで大学受験講座を聞くといった
受験勉強をしていました。

小生は国公立大学受験という方針を
担任の先生に伝えていました。

当時は共通一次試験の2年目ということで、
共通一次試験を受験しました。

当時の平均点は612点で、自己採点結果は
594点でした。

とにかく、私立大学を7校ぐらい受験して、
合格したのが東洋大学工学部でした。

「合格したからまあいいや」と思っていたところ、
担任の小林先生が突然自宅にやってきました。

先生は秋田大学の鉱山学部の2次試験が
東京(東海大学の代々木キャンパス)で受けれるから
受けてみないかと言われ、ダメ元で受けてみることに
しました。

秋田大学の鉱山学部(電子工学科)の2次試験を
受けてみたものの、自分の感触では五分五分でしたが、
合格発表を見に行ったところ、見事に合格していました。

1980年(昭和55年)に秋田大学鉱山学部電子工学科
(現秋田大学理工学部数理・電気電子情報学科)に
入学し、1984年(昭和59年)に卒業しました。

1,2年生は、一般教育主体で、第一外国語だけで
3年生に進級できたので、不得意な英語の単位を取らず、
ドイツ語をのみを選択して、週休2日にしました。

大学が電気主任技術者の資格の認定校になっていたので、
この資格を取るための素地を作っておきたくて、
電気主任技術者認定単位の科目をすべて受講しました。

おかげさまで、電気主任技術者認定単位の科目の
すべての単位をとりました。

中でも一番難しかったのが、電気機器Ⅰという科目で、
なかなか単位が取れないで有名なのですが、
1回目の追試で単位を取れました。

1年生の3ヶ月間は下宿で過ごしましたが、
支払っている額の割に待遇が悪いので、
下宿をでてアパートの2階の部屋を借りて、
移りました。

1年生の夏休みは、前々から指摘されていた膿胸の
膿の取り残しを除去をするため、手術入院をしました。

手術の際、輸血用血液を提供してほしいと言われて、
困っていたところ、病院で知り合った外科で同室の
患者さんの奥さんを通じて、息子さんふたりから
血液の提供を受けたことに今も感謝しています。

また、アパートの鍵を部屋に残して、
鍵をかけてしまい、部屋に入れなくなったときに、
たまたま自宅を建て替えるために仮住まいで
引越してきた隣のご夫婦に電話を貸して頂き、
事なきを得たことも感謝しています。

1年生の冬は、秋田としては珍しく、
雪が1メートル位つもり、零下20度位まで
行き、厳しい冬を過ごしました。

この時は氷ドメがあるのを知ってはいましたが、
不注意で経験したことがない水道の凍結を何回もやって、
1時間から2時間の間、水道の蛇口にお湯をかけて、
水を出した苦労は忘れません。

苦労した1年が終わり、2年生になったときに
近くのアパートの1階に移りました。

2年生、3年生は学生生活も慣れたせいか、
下宿にいた友達や大学で知り合った友達と
週末に自宅アパートでの宴会、
お金に余裕がある時には旭川通りという
繁華街に繰り出して週末飲んでいました。

4年生になると卒論のため、研究室に入らなければ、
なりませんでした。

競争率が高かったのですが、
液晶や薄膜の研究をしていた佐藤進教授の
研究室になりました。

研究テーマは、「WO3-MO3化合物薄膜における
エレクトロクロミックの研究」でした。

専用の真空蒸着機を与えてもらい、
蒸着条件をつかむのに苦労しました。

このときには、お昼直前に日本海中部地震が
発生し、急遽研究室に戻り、動いていた
真空蒸着機を止めたエピソードがあります。

その時は、4階にある研究室の本棚から、
本が飛び出して散乱している状態でした。

お陰さまで、研究は成果が出て、無事卒論は
パスしました。

卒論の指導教官であり、就職担当でもある
佐藤教授と、夏休み前に進路面談がありました。

このときに、小生は就職希望でしたが、
佐藤教授から「君は成績優秀なので、
秋田大学の大学院ではなく、東北大学の
大学院を受験してみてはどうか?」と言われ、
9月に受験しました。

見事、不合格でしたが、教授から
「その後どうする?」と聞かれ、
「大企業への就職がいい」と答えました。

「H社とM社があるけどどうする?」と聞かれて、
M社は学生実習で行った事があるので答えに
渋っていると、「じゃあ、H社でいいね」と
いうことであっさり決まってしまいました。

H社は、お定まりの入社試験ですが、
人物面接と技術面接があり、
技術面接では、入社試験で間違えた問題を
黒板に板書きでリカバリさせられました。

1週間後に電話で教授あてにH社から
採用通知がありました。

また、卒業時には、大学で卒業式と、
場所を変えてホテルで大学の同窓会
入会式があるのです。

ホテルで行われた大学の同窓会入会式で
電子工学科の成績優秀者として表彰され、
賞状と記念の時計を頂きました。

次回のマイ・ストーリーは、
社会人時代(その1)について、
書いていきますね。