ブログ,プログラミング

プログラミングの教育という面からみると
どうでしょうか?

世界に目を向けてみると、イギリスや
フィンランド、オーストラリアでは
すでにプログラミング科目が小学校から
必須科目になっています。

韓国でも中学校から授業に取り入れられる
見込みになっています。また、アメリカには
実践的なプログラミング・スキルを学ぶ
ことのできる学校が多数存在します。

これほどまでに、世界中でプログラミング・
スキルが求められているのです。

一方、日本の状況はどうかといううと、
近年までは、小中学校でプログラミングを
教えることはまれでした。

高校でも「社会と情報」といった科目に
よる一般常識程度、大学ですら理系の学部に
進学しないとカリキュラムとして
プログラミングを学ぶ機会はありませんでした。

このような状況が、日本の「エンジニア不足」の
大きな一因となっています。

そのため、国家プロジェクトとしてスキルのある
エンジニアを育てることが急務の課題として
挙がってきています。

このため、日本でもいよいよ、2020年から
小学校でのプログラミング科目の義務教育化が
検討され始めましたが、2017年現在、
教えることのできる教員があまり存在しません。

このように、世界単位、かつ政府主導で
「プログラミング・スキルの養成」が
一大プロジェクトとして動き始めています。

ブログ,プログラミング

そもそもみなさんにとって本当に
プログラミングのスキルが必要であるのかを
きちんと検討することが大切です。

マスメディアの情報に流されて必要も
ないのに大切な時間を使う必要がありません。
きちんと事前に判断することが大事です。

ここ数年で急速に、社会人の一般教養として
「プログラミング・スキル」が求められる
ようになりました。

テレビや雑誌の特集でプログラミング関連の
放送や記事を見た方も多いのではないでしょうか。

そこでは、
・これからは読み・書き・プログラミングの
 3能力が必要になる
・英語よりも、プログラミングの方が
 大切なのではないか

といったものから

・プログラミングを学ぶと、論理的思考が
 鍛えられる
・プログラミングがわかると、仕事の作業
 効率が数十倍も高まる
・独創的なアイデアをパソコン1台で形に
 でき、しかもそれを世界に向けて
 発信できる

といった、ビジネスシーンで実利のある効用まで、
さまざまな意見が語られています。

これらの現状を見定めながら、みなさん自身で、
プログラミング・スキルを学ぶべきか否かを
判断していただければと思います。

ブログ,マイストーリー

私の小学生の低学年時代について、書きます。

小学校は、沼津市立第五小学校に
入学しました。

1年生、2年生とも4組で、
北条節子先生という女性の担任でした。

その先生の印象は、ぽっちゃりした
インテリという感じでした。

今でいう、サンデーモーニングの
スポーツコーナーに出演している
「唐橋ユミ」さんのよう感じです。

当時は木造モルタル校舎で、ちょっと
暗い感じの雰囲気でした。

この頃の一番の思い出は、
この場で言うのもお恥ずかしい話ですが、
1年生の時に授業中にもようし、
耐え切れずにXXしてしまったことです。

XXの部分は、想像にお任せします。

家が近かったので直ぐに、
祖母が学校に呼ばれ、早退しました。

このことで、当時友達から
いじれられることはありませんでした。

また、2年生の時に、
三島にある楽寿園に両親、妹と行き、
川遊びをしていました。

バランスを崩し、転んでずぶ濡れになり、
帰宅したことを覚えています。

この頃から、よく母からの実家に
行くようになり、母からの祖父が
当時の国鉄に専務車掌として、
勤務のからわら、よく来たと
言って髪の毛を切ってもらった
ことを今の事のように思い出します。

次回からは、マイストリーは、
1~2週間に1度の投稿、
名言、格言について、
2~3日に1度の頻度で、
投稿していきます。

次回のマイ・ストーリーは、
小学生の中学年時代について、
書いていきますね。

ブログ,マイストーリー

私の小学生中学年から中学生時代について、
書きます。

3年生、4年生とも5組で、
二村筆子先生という女性の担任でした。
まだ、ご健在です。

その先生の印象は、声が大きく、
ハキハキした先生でした。

当時は木造モルタル校舎で、二村先生の声が
校舎の端から端まで聞こえるという元気な
先生でした。

当時は、校舎の建て替えのために、
教室が普通の教室ではなく、仮住まいの
音楽教室で授業を受けていました。

音楽教室のため、舞台があり、黒板に書くにも
5段の階段を登り降りしたのを今も覚えています。

おまけに新校舎(鉄筋校舎)の建設で、
当時は自動杭打ち機ではなく、
クレーンでおもりを吊り上げて
杭に落とすという原始的な方法で
杭を打っていました。

このために地響きと音がすごかったです。

ラッキーなことに、4年生の終わりに新校舎が
完成すると真っ先に新校舎の教室に入れたことで、
今までのモルタル校舎の水拭きから、
ワックスがけに変わり、掃除が楽になりました。

また、4年生のときには、小生にとっては、
大変ショッキングな事が起きました。

それは、老衰の祖父の死を目の前で、
看取ったことです。

この時は、学校から下校して直ぐに、
祖母から祖父の肩を叩いてと言われたので、
肩をたたいていました。

いつもは反応があるのに反応がないのです。

よく見てみると、息をしていないように
見えたのです。直ぐに台所にいた祖母に
言って、かかりつけの医者に連絡し、
往診してもらいました。

往診した医師からは、ご臨終が近いので、
死に水を取る用意をしてくれと言われました。

祖母は気が動転して何もできなかったので、
急遽、医師の指示で茶碗、脱脂綿、箸を
用意して、小生が死に水を取りました。

祖父がなくなったのが、お盆の直前でしたので、
葬式ができすに、遺体にドライアイスを抱かせて、
1週間同じ部屋で寝起きしていました。

子供ながら、人間の死というものを体感しました。

5年生、6年生とも5組で、
伏見先生という男性の担任でした。

伏見先生は太っていて、メガネを掛け、
犬のブルドックによく似た顔でした。

伏見先生は体育の先生で、体育館が完成すると
学校の設備費でトランポリンを買って、
当時としては珍しく、冬の体育の時間は、
トランポリンを授業でやっていました。

私は、野球・ソフトボールなどの球を捕獲する
球技はまるっきりダメでしたので、町内の
子供会のソフトボールには参加しませんでした。

中学は、沼津市立第五中学校に入学しました。

中学校1、2年生の担任は、松本守という英語の
先生で、野球部の顧問でした。

とにかく、英語の授業はスパルタで、ラワン材の
板を常時持っていて、答えを間違えるとラワン材の
板で頭をこすられるという拷問みたいなことを
されました。

当時は中学校は五分刈り以下の丸刈りでしたので、
毛が伸びてきて、ラワン材でこすられると
髪の毛がラワン材に引っ張られて、
かなり痛い思いをした事を覚えています。

また、1年生のときに小生が一番早くきて、
教室の鍵を開ける前にガラスが割れていたのを
先生に申告しませんでした。

このことで、朝の学活に引き続く
道徳の授業が小生のこの行動について、
担任が問題提起を行い、みんなで議論と
なったことを昨日のことのように覚えています。

また、この年には、七夕豪雨があり、学校の近くの
通称囚人堀と呼ばれる新中川という排水路が溢れ、
運動場のヘドロの除去や自分たちの教室がある
モルタル校舎の掃除を2日がかりでやりました。

部活は、従兄弟が卓球部に入っていたので、
親から進められて、卓球部に入部しました。
2年生の後半からは、部長を任されました。
学校の成績は中の上くらいの成績でした。

中学3年生の担任は、野宮先生という
技術科の先生で、吃り(どもり)が
きつかった印象があります。

このクラスは、担任の先生の言うことを
聞かなかったということが度々ありました。

このことで、結構、担任の先生の説教が
長かったことを思い出します。

3年生になると自分の進路を決めなければ
なりません。小生は普通科高校への進学を
選択しました。

当時、静岡県は学区制が引かれており、
東部地区は公立6校(内1校が普通科女子校、
これ以外の2校は工業・商業)、
私立3校の中から選ばなければなりません
でした。

小生の家庭は、両親が共働きでしたので、
公立高校への進学が必然でした。

このため、沼津東高、御殿場南高、
沼津市立高の普通科がある3校のうちの
中から沼津市立高を1本で受けることに
しました。

担任からは、落ちるはずがないので、
しっかりやれと言われました。

受験したらあまりにも問題が簡単に
解けたので、これは合格すると
いう手応えがありました。

その後、無事合格し、沼津市立高に
入学しました。

次回のマイ・ストーリーは、
高校生から大学生時代について、
書いていきますね。