ブログ,マイストーリー

2019年(令和元年)6月に
社長に最後通告を言い渡されてから、
以前、登録してあった再就職支援サイトを
使って、再就職先を探し始めました。

程なくして、リクルート系の派遣会社である
スタッフサービスからオファーを頂き、
再就職が決まりました。

8月から再就職が決まり、
派遣先を探していただきました。

決まった派遣先は、静岡市清水区にある
某外資系の空調機メーカーです。

そこでは、スポット型、24時間換気型、
クリーンルーム用業務用空調室内機の
制御プログラムの開発および設計の
仕事を担当しました。

この会社は、元は早期退職したH社の
系列会社でしたので、この会社の文化に
馴染みやすく、仕事が楽に行えました。

2021年(令和3年)1月初めから、
業績が悪いということで派遣者が
切られるという話があり、
いつその日が来るか怯えていました。

とうとう、4月にその日が来てしまい、
まずは、スタッフサービスの営業から話があり、
その後、派遣先責任者から理由の説明が
ありました。

やはり、業績不振で派遣者費用を圧縮しなければ
ならなくなったので、5月いっぱいで
おいとま願いたいと言われました。
予想通りでした。

5月にスタッフサービスの営業から、
次の仕事の面接依頼があり、
面接しましたが、案件が立ち消えたということで
次の仕事がなくなりました。

6月は、次の仕事が見つからず、
スタッフサービスの管理職から
面談に呼び出されました。

その内容は、静岡県中部、東部で仕事を
探しているが見つかりそうもないので、
どうするかという話でした。

小生も、女房、子供2人を養う必要があるので、
神奈川県、東京都、愛知県、岐阜県にまで、
手を広げて仕事を探していただき、
単身赴任をするということにしました。

程なくして、名古屋地区の営業から2件ほど
話があり、面接を受けました。
そのうちの1件がオファーを頂けたというので、
名古屋に単身赴任することになりました。

派遣先は、某総合電機メーカーのM社の系列会社である
ソフトウェアの会社でした。

そこでの仕事は、シーケンサ制御用ソフトウェアの改修でした。
具体的な内容は、下記です。
・汎用機、特定顧客向け既存シーケンサの
 ソフトウェア不具合解析、不具合箇所の改修
・中国向けシーケンサのセキュリティ機能部の
 ポート制御プログラムの開発

ところが行った先の派遣責任者は、仕事をしていくうちに
わかったのですが、転勤したばかりで、
シーケンサーがどのようにわからない人で、
管理をする人でした。

なので、担当するシーケンサーのプログラムについては、
派遣責任者の下にいる別の派遣さんの担当者から聞いてと
言われました。

その方は、別プロジェクトにも参画していて、
以前に担当した製品のプログラムの不良対策に追われて忙しく、
じっくりとシーケンサーのプログラムについて
教えていただけない状態でした。

仕事をやっていく過程で、派遣先責任者から
シーケンサーのプログラムについて
何も知らないのになんで、
こんな事ができるんだと言われ、
仕事をやる気がなくなりました。

2021年12月にスタッフサービスの名古屋の管理者に
呼ばれ、2022年3月で定年になるので、どうするかと
言われました。

もちろん、継続再雇用を選びましたが、
給料が下がるということでしたので、
静岡に戻りたいということを申し上げました。

2月の中旬に、3月で今の派遣先はおいとまが決まったと
言う知らせがありました。

2月中旬から静岡の方で、仕事を探していただき、
2月終わりに担当営業から呼び出されて、
もし、3月までに見つからなかったら、
自動的に退職ということを告げられました。

しかし、担当営業が名古屋の管理者に
口利きをしてくれて、4月中に見つからなければ、
自動的に退職ということにしていただきました。

4月の初めに単身赴任で使用していた会社の
寮を引き払い、沼津の自宅に戻りました。
3月から4月にかけて静岡での仕事を探して頂き、
3回ほど面接しましたが、オファーを頂けず、
4月末でスタッフサービスを自動退職しました。

これが、私のマイストーリーです。

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2015年(平成27年)9月に
早期退職後、会社の再就職プログラムで、
リクルートコンサルテュングさんに
お世話になり、再就職活動をしました。

一時退職金を積み増ししていただきましたが、
失業保険と一時退職金で
なんとか生活してきました。

53歳となるとなかなか再就職もままならず、
この間、個人事業主の手続きをして、
色々と起業塾に手を出してみましたが、
なかなか泣かず、飛ばすで、
1年半が過ぎてしまいました。

1年半近く、再就職活動をしましたが、
100社を超える起業にアプローチしました。
散々たる結果で、
そのうちの10社で面接まで行って、
1社だけ採用に通りました。

その1社が東京の虎ノ門にある、
〇〇ソリューションという
小さな派遣会社でした。
そこに、2017年3月に再就職しました。

従業員は25人ほどで、
社長がいて、その人以外は、
みんな派遣されていました。

社長は、同郷の御殿場の出身で、
沼津にある県立の某進学校の卒業生でした。
また、社長は電気通信メーカーであるN社を
定年退職して、立ち上げた会社であると
言っていました。

2017年3月から静岡市にあるN社の系列会社に
派遣され、神奈川県にあるJ○の損害保険の
サーバの構築の仕事を担当しました。

そこでは、下記の仕事をしました。
・OS、基盤ソフトアウェアの設定設計および設定手順書の作成 
・バックアップ設計、バックアップソフトウェアの設定/アップデート、動作テスト

半年ほどして、予算がないということで、
おいとまになりました。

2017年10月から、今度もN社の関連会社に
派遣され、親方日の丸の通信会社系列会社のもとで、
霞が関にある商標などを
扱うT庁のサーバー更改の仕事をしました。

そこでは、下記の仕事をしました。
・OS、基盤ソフトウェア設定/アップデート、動作テスト
・WSUS,DBソフトウェアの運用マニュアルの作成

真面目に仕事をしていたのですが、
1年ほどして、派遣先の取りまとめの方から、
報連相がなっていないとして、お怒りで、
おいとまということになりました。

2018年10月から早期退職した総合電機メーカーのH社の
金融システム事業部に派遣され、
某NR○社が請け負っている次期年金システムの見積を
担当しました。

派遣先の責任者は課長でしたが、
某NR○社からの要求はすべてOKにするYesマンでした。
具体的にろくすっぽ仕事の内容を教えない上に、
打ち合わせで席におらず、疑問を聞けない状態で、
こちらのミスばっかりを指摘して、
使い物にならないと怒られて、
2019年2月においとまになりました。

2019年4月からは、
先程の親方日の丸の通信会社系列会社とは違う
系列会社に派遣されて、
RemoteDesktop システムの提案および検証を
担当しました。

またここも、派遣先責任者は常時不在で、
仕事の内容もろくすっぽ説明せず、
一緒の仕事をやっていた別会社の方にも
聞きましたが、仕事の内容もお詳しく教えて頂けず、
よくわからず、放置状態で、何もなければ、
定時で帰っていいよとその方が言うので
その通り、定時で帰っていました。

その後、5月連休明けに、
一緒の仕事をやっていた別会社の方が
小生の仕事のやり方がおかしいということで
派遣元責任者である社長や関係者が呼び出されて、
会議が開かれ、おいとまになりました。

社長からはこっぴどく怒られました。
しかしながら、この社長がワンマンわがまま社長で
あることが露呈しました。

社長からは、小さな会社なので、
「もうお前をこのまま、待機状態では、給料を払えない。
自分で次の職を探せ!」と言われてしまいました。

結局、次の職を探さなくてはならなくなり、
以前使っていた、就職支援会社を使って、
仕事を探し始めました。

これ以降は、その5にしますね!
乞うご期待!

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私が死ぬまでにやりたいことは下記の
5つのことです。

(1)思う存分海外旅行をしたい

   今まで、海外は、アメリカの
   カルフォルニア州サンノゼ
   (通称:シリコンバレー)、
   シンガポール、タイの
   プーケットの3箇所に行った
   ことしかないので、色々な
   国々に行きたい

(2)思う存分国内旅行をしたい

   今まで、東北・関東・東海・
   関西・山陽・九州北部以外の
   場所は、旅行に行ったことが
   ないので、行かなかった
   場所にゆっくりと旅行したい。
   

(3)親から引き継いだ財産を
   子供達にそのまま引き継ぐ

   親から引き継いだ財産を
   取り崩さすにそのまま
   子供達に引き継ぐ

(4)私の財産を子供に引き継ぐ

   大した財産がありませんが、
   今ある不労所得所得も含めた
   財産を私の子供達に引き継ぐ

(5)今までの私の人生経験を
   子供達に引き継ぐ

   これまでの私が経験した
   人生経験や親から聞いた
   話を子供達に話をして、
   引き継ぐ。

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タイムマシンで過去に戻って高校生の私に
アドバイスしたい5つのことは以下に示す
ことです。

(1)高校時代にはもっと勉強すること

   高校時代にもっと勉強しておけば
   良かったという後悔がある。

(2)会社は定年まで面倒を見てくれない

   年功序列が崩れて、成果主義に
   なるため、定年60歳まで会社に
   いれるかわからない。

   下手すると、年金支給が定年の
   60歳ではなく、将来65歳に
   延長されている。

   早期退職しても、稼ぐ手を
   考えること

(3)お金の勉強をすること

   お金の稼ぎ方、使い方は、
   学校では教えてくれないので、
   来るべき将来に備え、お金に
   関する本を買って勉強すること
      
(4)早く結婚すること

   晩婚となると、住宅ローンや
   子供の育英資金などの工面が
   大変になる。

   遅くとも30歳代前半で結婚する
   よう考えること

(5)近い将来、便利なシステムが
   発明・開発、普及するので、
   勉強してビジネスを考えること

   近い将来、通信に関する便利な
   システムが発明・開発、普及する。

   このため、その仕掛けを使った
   ビジネスを乗っかり、不労所得を
   得て、子供に教え、引き継ぐこと

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私は、ヒトのいうことを安易に信用した
ばっかりに商品の代金を支払う羽目に
なったり、借金を踏み倒されました。

私は会社の寮にいたときに、寮監から
自分が持っていた市販品の絵が
欲しいと言われ、取り寄せました。

大した額ではなかったのですが
翌月に寮監が他の寮に異動することが
わかり、直接寮監に請求したのですが、
絵の代金を払ってもらえず、
踏み倒され、商品の代金を支払いました。

親しいヒトでなければ、

(1)商品の取り寄せなど仲介をしない。
(2)商品が欲しいのであれば、仲介せず、
   販売元と直接取り引きさせる。

という2つの教訓を学びました。

2回目は、仕事上親しいヒトから、
その親しい友人が車で事故ってしまい、
保険が使えないので、車の修理代30万円を
貸してほしいと言われ、貸しました。

このときにはまだ、独身で金銭に余裕が
あったので、返せるときに返して欲しいと
言いましたが、未だ30万円の返済はありません。

このときには、下記2つの教訓を学びました。

(1)借金に関しては、毅然と断る。
(2)どうしてもというときには、
   借用書と保証人を立たせて、
   借用書を書かせる。

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2006年(平成18年)4月に
元いた部署に戻り、再び、記憶装置製品の
サポートサービス(ヘルプデスク)を
担当することになりました。

グローバル企業に対する英語メール対応と
日立製品全般のお客様からのお問い合わせ
窓口の一本化の商品開発を行いました。

記憶装置製品のサポートサービス事業運営
管理および運用の全体把握を行いました。

また、サポート契約管理舞台の立ち上げ
および整備やお問い合わせ窓口部隊の
立ち上げおよび整備を行いました。

夜間休日の緊急対応案件の設計への
エスカレーションおよび問い合わせ窓口への
設計からの回答内容の伝達および詳細な説明を
行いました。

この仕事の担当したのは、2015年(平成27年)
3月までです。

2015年(平成27年)4月からは、クラウド
プラットフォームサービス商品の広報および
教育に従事しました。

2015年(平成27年)6月に事業部の業績不振に
よる早期退職の募集があり、色々と考えた末、
2015年(平成27年)9月末に早期退職することを
決意し、退職しました。

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2000年(平成12年)4月の中旬に
突然、上司である担当部長(副部長)に
応接室まで来るように言われました。

応接室に待っていたのは、当時の
部長と応接室に来るようにと指示した
担当部長でした。

応接室に入ると重苦しい雰囲気に
なり、担当部長から事業部の業績が
振るわないので、他の事業部に
異動して欲しいと言われました。

移動先は新川崎の
システム・エンジニア(SE)の
事業部に異動する話でした

小生は、静岡県沼津市の自宅から
通う予定で、遠いので新幹線通勤が
条件ということを話しました。

それでもいいというので、
とりあえず、先様の事業部の面接が
あるので、5月連休前に面接を受けて
欲しいとのことでした。

5月連休前に事業部の面接を受けた
ところ、なんと2人の面接官の内の
1人は、顔見知りで以前のシステム開発
研究所の勤労課にいた主任さんでした。

面接時に、システム・ソフト開発実習員で、
小田原工場から派遣されていたということを
話すと、その顔見知りの方は小生を
思い出してくれました。

面接結果はもちろん合格で、5月連休明けに
上司である担当部長より、6月6日から
赴任するように示達がありました。

ところが、5月連休明けに突然もう一度、
当時の上司である部長と担当部長に
応接室に来るように言われました。

そこでの話は、1月に同じ敷地内にできた
新しい事業部に6月6日付けで異動して
欲しいとのことでした。

後からわかったことですがSEとして
異動する方が小生含めて20人位いた
のです。

しかし、記憶装置を詳しく知っている
人間である小生他2,3人をSEとして
異動させてしまうとまずいと
いう部長の判断で、新しい事業部に
異動ということになりました。

異動した最初に仕事は、Oracleという
データベースソフトを使用した無停止
データバックアップソリューションの
商品化でした。

7月に入ると、上司である部長から、
「英語ができるか?」と聞かれ、
「できません」と答えました。

7月中旬に記憶装置製品のサポートサービス
(ヘルプデスク)を担当している主任が
8月に退職するということになりました。

最初は英語ができる別の方が
後釜だったのですが、前出の英語が
できないということが決め手となり、
小生がその後釜となりました。

2000年(平成12年)8月より、
2004年(平成16年)9月まで、
記憶装置製品のサポートサービス
(ヘルプデスク)を担当することに
なりました。

この時期から、新規事業として、
記憶装置製品のハードウェア保守窓口と
ソフトウェアサポート窓口(ヘルプデスク)の
2つに分かれていた窓口の一本化を責任者と
して行いました。

その後、記憶装置製品のサポート(ヘルプデスク)
窓口の実務責任者として、サポートサービス
商品の開発、サポート体制の強化、事業の
お金の収支管理を担当しました。

また、お客様からのクレーム対応を行い、
いろんな業種のお客様のところに、
お詫びに行きました。

ひとえに、当時の部長、課長のご支援や
系列会社を含めた関連会社のご協力の
賜物というしかありません。

私事では、2001年(平成13年)1月に娘が誕生、
2003年6月に息子が誕生しました。
女房からは出産の立会いを言われていましたが、
仕事関係で出産の立会いができませんでした。

記憶装置の製品品質・お客様の対応が悪いと
いうことをあるお客様より指摘をされて、
2004年(平成16年)10月より、臨時職制が
引かれることになり、元いた事業部に
異動になりました。

担当した仕事は、重要顧客の販売から
製品トラブル解決まで面倒をみる
アカウントマネージャーでした。

5つほどの重要顧客を担当しました。

アカウントマネージャの仕事は、
2006年(平成18年)3月まで担当していました。

2006年(平成18年)4月以降の
マイ・ストーリーは社会人編その3として、
書いていきます。

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大学卒業後、1984年(昭和59年)に
某総合電機メーカーH社に
入社しました。

2週間の新人集合研修が終了後、
各工場に配属されました。

入社前年にIBMスパイ事件があり、
ソフトウェアの危機が叫ばれて
いた中で、ソフトウェア工場を
第一希望にしました。

しかし、第二希望である
ストレージ専門工場である
小田原工場への配属でした。

配属後、1週間の新人研修後、
2ヶ月間の現場実習に入りました。

5月の連休後のある日、勤労課に
呼び出されました。

何かやってしまったかと思い、
ビクビクしていたところ、
勤労課の主任から君はもう配属が
システム設計部に決まっている。

ついては、7月21日から
システム開発研究所にシステム・
ソフト開発(SS)実習員として、
1年間行って欲しいと告げられました。

7月20日に配属先の上司への挨拶も
そこそこに、システム開発研究所へ
赴任しました。

システム開発研究所では、
コンピュータの基礎知識から
ソフトウェア理論、ソフトウェアの
設計からテストに至るまで
叩き込まれました。

毎週1回、4時間位教育があり、
宿題が出されて、レポートを
毎週提出するという忙しい日々を
過ごしました。

また、SS実習では、製品開発のための
シミュレーターを設計・開発し、
メインフレームのアセンブラで
4.5Kステップ、マルチタスク動作で
完成させました。

1985年(昭和60年)7月21日に
小田原工場に帰任し、1989年(平成元年)
3月までカートリッジ型マグネティック
テープ(MT)を動作させる制御プログラムの
開発・保守に従事しました。

私が担当したところは、この中の
MTドライブを制御、テープ上の
フォーマットをチェックする
制御プログラムです。

そのプログラムは専用アセンブラで、
MTドライブを制御する部分の
4.5Kステップを作成しました。

テープフォーマットをチェックする
部分は他の担当者が作成し、私と
取りまとめ者の3人でデバック、
テストを行いました。

新規開発のため、お手本がなく、
製品開発から製品出荷後の保守まで
苦労しました。

当時、平日は午前様、休日出勤も
当たり前という状態で、よく体が
持ったなと思います。

1989年(平成元年)4月より、
2000年(平成12年)6月まで、
メインフレーム向け半導体記憶装置の
制御プログラムの開発・保守に
従事しました。

最初は、ハイスピードアクセス機の
開発ということで、マイクロプロセッサへ
変更ということで、制御プログラムの
要件定義から設計・テスト・保守まで
一貫してプロジェクトの取りまとめを
しました。

この次の製品として、光インタフェースの
サポートも一貫してプロジェクトの
取りまとめを担当しました。

半導体記憶装置は、社外事故も多く、
社外事故対策もすべての機種を
担当しました。

1994年(平成6年)4月より、
半導体記憶装置の制御プログラムの
保守を担当するかたわら、大型RAIDの
お客様対応、装置の動作検証、
一部機能の制御プログラムの開発を
担当しました。

2000年(平成12年)2月に女房と
結婚しました。

2000年6月以降のマイ・ストーリーは
社会人編その2・その3として、
書いていきます。

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私の小学生の低学年時代について、書きます。

小学校は、沼津市立第五小学校に
入学しました。

1年生、2年生とも4組で、
北条節子先生という女性の担任でした。

その先生の印象は、ぽっちゃりした
インテリという感じでした。

今でいう、サンデーモーニングの
スポーツコーナーに出演している
「唐橋ユミ」さんのよう感じです。

当時は木造モルタル校舎で、ちょっと
暗い感じの雰囲気でした。

この頃の一番の思い出は、
この場で言うのもお恥ずかしい話ですが、
1年生の時に授業中にもようし、
耐え切れずにXXしてしまったことです。

XXの部分は、想像にお任せします。

家が近かったので直ぐに、
祖母が学校に呼ばれ、早退しました。

このことで、当時友達から
いじれられることはありませんでした。

また、2年生の時に、
三島にある楽寿園に両親、妹と行き、
川遊びをしていました。

バランスを崩し、転んでずぶ濡れになり、
帰宅したことを覚えています。

この頃から、よく母からの実家に
行くようになり、母からの祖父が
当時の国鉄に専務車掌として、
勤務のからわら、よく来たと
言って髪の毛を切ってもらった
ことを今の事のように思い出します。

次回からは、マイストリーは、
1~2週間に1度の投稿、
名言、格言について、
2~3日に1度の頻度で、
投稿していきます。

次回のマイ・ストーリーは、
小学生の中学年時代について、
書いていきますね。

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私の幼少期について、書きます。

幼少期は実を言うとあまり記憶に無いのが
本心です。祖父母や両親が言っていたことが
中心になります。

私は現在、沼津市内にある私立幼稚園に
昭和40年(1965年)に入園し、
昭和43年(1968年)に卒園しました。

入園時は、年少さんクラスのもも組でした。
この頃は体も弱く、よく風邪を引いて、
近くのかかりつけの病院に行っていたそうです。

ある日、風邪をこじらせて、膿胸という病気に
罹患し、3ヶ月程度沼津市立病院の小児科に
入院していたそうです。

私の人生の中で、これが最初の大病でした。

年中さんのクラスは、すみれ組で、
きらい先生という女性の先生だったことを
記憶しています。

年中さん時代はよく同じクラスの友達と
遊具で遊んでいたことは覚えています。

年長さんのクラスは、すぎ組で、
人数が多く、担任が2名でした。
その担任は、比較的年のいった西野先生と
若い渡辺先生でした。

若い渡辺先生をいじめて、よく泣かした
ことを今でもよく覚えています。

高校時代くらいになってわかったことですが、
実は、西野先生がなくなった時に両親から
聞かされたのですが、私の母方の伯父の
姉(親戚だった)ということを知りました。

また祖母と両親のすすめもあり、
園長先生が、やっていた絵画教室に行き、
一向に上達せず、絵を書いていました。

一方、近所では、ガキ大将がおり、
いじめられっ子でした。

次は、小学生の低学年時代について、
書きますね。