ブログ,マイストーリー

2015年(平成27年)9月に
早期退職後、会社の再就職プログラムで、
リクルートコンサルテュングさんに
お世話になり、再就職活動をしました。

一時退職金を積み増ししていただきましたが、
失業保険と一時退職金で
なんとか生活してきました。

53歳となるとなかなか再就職もままならず、
この間、個人事業主の手続きをして、
色々と起業塾に手を出してみましたが、
なかなか泣かず、飛ばすで、
1年半が過ぎてしまいました。

1年半近く、再就職活動をしましたが、
100社を超える起業にアプローチしました。
散々たる結果で、
そのうちの10社で面接まで行って、
1社だけ採用に通りました。

その1社が東京の虎ノ門にある、
〇〇ソリューションという
小さな派遣会社でした。
そこに、2017年3月に再就職しました。

従業員は25人ほどで、
社長がいて、その人以外は、
みんな派遣されていました。

社長は、同郷の御殿場の出身で、
沼津にある県立の某進学校の卒業生でした。
また、社長は電気通信メーカーであるN社を
定年退職して、立ち上げた会社であると
言っていました。

2017年3月から静岡市にあるN社の系列会社に
派遣され、神奈川県にあるJ○の損害保険の
サーバの構築の仕事を担当しました。

そこでは、下記の仕事をしました。
・OS、基盤ソフトアウェアの設定設計および設定手順書の作成 
・バックアップ設計、バックアップソフトウェアの設定/アップデート、動作テスト

半年ほどして、予算がないということで、
おいとまになりました。

2017年10月から、今度もN社の関連会社に
派遣され、親方日の丸の通信会社系列会社のもとで、
霞が関にある商標などを
扱うT庁のサーバー更改の仕事をしました。

そこでは、下記の仕事をしました。
・OS、基盤ソフトウェア設定/アップデート、動作テスト
・WSUS,DBソフトウェアの運用マニュアルの作成

真面目に仕事をしていたのですが、
1年ほどして、派遣先の取りまとめの方から、
報連相がなっていないとして、お怒りで、
おいとまということになりました。

2018年10月から早期退職した総合電機メーカーのH社の
金融システム事業部に派遣され、
某NR○社が請け負っている次期年金システムの見積を
担当しました。

派遣先の責任者は課長でしたが、
某NR○社からの要求はすべてOKにするYesマンでした。
具体的にろくすっぽ仕事の内容を教えない上に、
打ち合わせで席におらず、疑問を聞けない状態で、
こちらのミスばっかりを指摘して、
使い物にならないと怒られて、
2019年2月においとまになりました。

2019年4月からは、
先程の親方日の丸の通信会社系列会社とは違う
系列会社に派遣されて、
RemoteDesktop システムの提案および検証を
担当しました。

またここも、派遣先責任者は常時不在で、
仕事の内容もろくすっぽ説明せず、
一緒の仕事をやっていた別会社の方にも
聞きましたが、仕事の内容もお詳しく教えて頂けず、
よくわからず、放置状態で、何もなければ、
定時で帰っていいよとその方が言うので
その通り、定時で帰っていました。

その後、5月連休明けに、
一緒の仕事をやっていた別会社の方が
小生の仕事のやり方がおかしいということで
派遣元責任者である社長や関係者が呼び出されて、
会議が開かれ、おいとまになりました。

社長からはこっぴどく怒られました。
しかしながら、この社長がワンマンわがまま社長で
あることが露呈しました。

社長からは、小さな会社なので、
「もうお前をこのまま、待機状態では、給料を払えない。
自分で次の職を探せ!」と言われてしまいました。

結局、次の職を探さなくてはならなくなり、
以前使っていた、就職支援会社を使って、
仕事を探し始めました。

これ以降は、その5にしますね!
乞うご期待!

ブログ,マイストーリー

私の小学生中学年から中学生時代について、
書きます。

3年生、4年生とも5組で、
二村筆子先生という女性の担任でした。
まだ、ご健在です。

その先生の印象は、声が大きく、
ハキハキした先生でした。

当時は木造モルタル校舎で、二村先生の声が
校舎の端から端まで聞こえるという元気な
先生でした。

当時は、校舎の建て替えのために、
教室が普通の教室ではなく、仮住まいの
音楽教室で授業を受けていました。

音楽教室のため、舞台があり、黒板に書くにも
5段の階段を登り降りしたのを今も覚えています。

おまけに新校舎(鉄筋校舎)の建設で、
当時は自動杭打ち機ではなく、
クレーンでおもりを吊り上げて
杭に落とすという原始的な方法で
杭を打っていました。

このために地響きと音がすごかったです。

ラッキーなことに、4年生の終わりに新校舎が
完成すると真っ先に新校舎の教室に入れたことで、
今までのモルタル校舎の水拭きから、
ワックスがけに変わり、掃除が楽になりました。

また、4年生のときには、小生にとっては、
大変ショッキングな事が起きました。

それは、老衰の祖父の死を目の前で、
看取ったことです。

この時は、学校から下校して直ぐに、
祖母から祖父の肩を叩いてと言われたので、
肩をたたいていました。

いつもは反応があるのに反応がないのです。

よく見てみると、息をしていないように
見えたのです。直ぐに台所にいた祖母に
言って、かかりつけの医者に連絡し、
往診してもらいました。

往診した医師からは、ご臨終が近いので、
死に水を取る用意をしてくれと言われました。

祖母は気が動転して何もできなかったので、
急遽、医師の指示で茶碗、脱脂綿、箸を
用意して、小生が死に水を取りました。

祖父がなくなったのが、お盆の直前でしたので、
葬式ができすに、遺体にドライアイスを抱かせて、
1週間同じ部屋で寝起きしていました。

子供ながら、人間の死というものを体感しました。

5年生、6年生とも5組で、
伏見先生という男性の担任でした。

伏見先生は太っていて、メガネを掛け、
犬のブルドックによく似た顔でした。

伏見先生は体育の先生で、体育館が完成すると
学校の設備費でトランポリンを買って、
当時としては珍しく、冬の体育の時間は、
トランポリンを授業でやっていました。

私は、野球・ソフトボールなどの球を捕獲する
球技はまるっきりダメでしたので、町内の
子供会のソフトボールには参加しませんでした。

中学は、沼津市立第五中学校に入学しました。

中学校1、2年生の担任は、松本守という英語の
先生で、野球部の顧問でした。

とにかく、英語の授業はスパルタで、ラワン材の
板を常時持っていて、答えを間違えるとラワン材の
板で頭をこすられるという拷問みたいなことを
されました。

当時は中学校は五分刈り以下の丸刈りでしたので、
毛が伸びてきて、ラワン材でこすられると
髪の毛がラワン材に引っ張られて、
かなり痛い思いをした事を覚えています。

また、1年生のときに小生が一番早くきて、
教室の鍵を開ける前にガラスが割れていたのを
先生に申告しませんでした。

このことで、朝の学活に引き続く
道徳の授業が小生のこの行動について、
担任が問題提起を行い、みんなで議論と
なったことを昨日のことのように覚えています。

また、この年には、七夕豪雨があり、学校の近くの
通称囚人堀と呼ばれる新中川という排水路が溢れ、
運動場のヘドロの除去や自分たちの教室がある
モルタル校舎の掃除を2日がかりでやりました。

部活は、従兄弟が卓球部に入っていたので、
親から進められて、卓球部に入部しました。
2年生の後半からは、部長を任されました。
学校の成績は中の上くらいの成績でした。

中学3年生の担任は、野宮先生という
技術科の先生で、吃り(どもり)が
きつかった印象があります。

このクラスは、担任の先生の言うことを
聞かなかったということが度々ありました。

このことで、結構、担任の先生の説教が
長かったことを思い出します。

3年生になると自分の進路を決めなければ
なりません。小生は普通科高校への進学を
選択しました。

当時、静岡県は学区制が引かれており、
東部地区は公立6校(内1校が普通科女子校、
これ以外の2校は工業・商業)、
私立3校の中から選ばなければなりません
でした。

小生の家庭は、両親が共働きでしたので、
公立高校への進学が必然でした。

このため、沼津東高、御殿場南高、
沼津市立高の普通科がある3校のうちの
中から沼津市立高を1本で受けることに
しました。

担任からは、落ちるはずがないので、
しっかりやれと言われました。

受験したらあまりにも問題が簡単に
解けたので、これは合格すると
いう手応えがありました。

その後、無事合格し、沼津市立高に
入学しました。

次回のマイ・ストーリーは、
高校生から大学生時代について、
書いていきますね。

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