マイ・ストーリー(社会人編その2)

2000年(平成12年)4月の中旬に
突然、上司である担当部長(副部長)に
応接室まで来るように言われました。

応接室に待っていたのは、当時の
部長と応接室に来るようにと指示した
担当部長でした。

応接室に入ると重苦しい雰囲気に
なり、担当部長から事業部の業績が
振るわないので、他の事業部に
異動して欲しいと言われました。

移動先は新川崎の
システム・エンジニア(SE)の
事業部に異動する話でした

小生は、静岡県沼津市の自宅から
通う予定で、遠いので新幹線通勤が
条件ということを話しました。

それでもいいというので、
とりあえず、先様の事業部の面接が
あるので、5月連休前に面接を受けて
欲しいとのことでした。

5月連休前に事業部の面接を受けた
ところ、なんと2人の面接官の内の
1人は、顔見知りで以前のシステム開発
研究所の勤労課にいた主任さんでした。

面接時に、システム・ソフト開発実習員で、
小田原工場から派遣されていたということを
話すと、その顔見知りの方は小生を
思い出してくれました。

面接結果はもちろん合格で、5月連休明けに
上司である担当部長より、6月6日から
赴任するように示達がありました。

ところが、5月連休明けに突然もう一度、
当時の上司である部長と担当部長に
応接室に来るように言われました。

そこでの話は、1月に同じ敷地内にできた
新しい事業部に6月6日付けで異動して
欲しいとのことでした。

後からわかったことですがSEとして
異動する方が小生含めて20人位いた
のです。

しかし、記憶装置を詳しく知っている
人間である小生他2,3人をSEとして
異動させてしまうとまずいと
いう部長の判断で、新しい事業部に
異動ということになりました。

異動した最初に仕事は、Oracleという
データベースソフトを使用した無停止
データバックアップソリューションの
商品化でした。

7月に入ると、上司である部長から、
「英語ができるか?」と聞かれ、
「できません」と答えました。

7月中旬に記憶装置製品のサポートサービス
(ヘルプデスク)を担当している主任が
8月に退職するということになりました。

最初は英語ができる別の方が
後釜だったのですが、前出の英語が
できないということが決め手となり、
小生がその後釜となりました。

2000年(平成12年)8月より、
2004年(平成16年)9月まで、
記憶装置製品のサポートサービス
(ヘルプデスク)を担当することに
なりました。

この時期から、新規事業として、
記憶装置製品のハードウェア保守窓口と
ソフトウェアサポート窓口(ヘルプデスク)の
2つに分かれていた窓口の一本化を責任者と
して行いました。

その後、記憶装置製品のサポート(ヘルプデスク)
窓口の実務責任者として、サポートサービス
商品の開発、サポート体制の強化、事業の
お金の収支管理を担当しました。

また、お客様からのクレーム対応を行い、
いろんな業種のお客様のところに、
お詫びに行きました。

ひとえに、当時の部長、課長のご支援や
系列会社を含めた関連会社のご協力の
賜物というしかありません。

私事では、2001年(平成13年)1月に娘が誕生、
2003年6月に息子が誕生しました。
女房からは出産の立会いを言われていましたが、
仕事関係で出産の立会いができませんでした。

記憶装置の製品品質・お客様の対応が悪いと
いうことをあるお客様より指摘をされて、
2004年(平成16年)10月より、臨時職制が
引かれることになり、元いた事業部に
異動になりました。

担当した仕事は、重要顧客の販売から
製品トラブル解決まで面倒をみる
アカウントマネージャーでした。

5つほどの重要顧客を担当しました。

アカウントマネージャの仕事は、
2006年(平成18年)3月まで担当していました。

2006年(平成18年)4月以降の
マイ・ストーリーは社会人編その3として、
書いていきます。