ブログ,マイストーリー

私が死ぬまでにやりたいことは下記の
5つのことです。

(1)思う存分海外旅行をしたい

   今まで、海外は、アメリカの
   カルフォルニア州サンノゼ
   (通称:シリコンバレー)、
   シンガポール、タイの
   プーケットの3箇所に行った
   ことしかないので、色々な
   国々に行きたい

(2)思う存分国内旅行をしたい

   今まで、東北・関東・東海・
   関西・山陽・九州北部以外の
   場所は、旅行に行ったことが
   ないので、行かなかった
   場所にゆっくりと旅行したい。
   

(3)親から引き継いだ財産を
   子供達にそのまま引き継ぐ

   親から引き継いだ財産を
   取り崩さすにそのまま
   子供達に引き継ぐ

(4)私の財産を子供に引き継ぐ

   大した財産がありませんが、
   今ある不労所得所得も含めた
   財産を私の子供達に引き継ぐ

(5)今までの私の人生経験を
   子供達に引き継ぐ

   これまでの私が経験した
   人生経験や親から聞いた
   話を子供達に話をして、
   引き継ぐ。

ブログ,マイストーリー

タイムマシンで過去に戻って高校生の私に
アドバイスしたい5つのことは以下に示す
ことです。

(1)高校時代にはもっと勉強すること

   高校時代にもっと勉強しておけば
   良かったという後悔がある。

(2)会社は定年まで面倒を見てくれない

   年功序列が崩れて、成果主義に
   なるため、定年60歳まで会社に
   いれるかわからない。

   下手すると、年金支給が定年の
   60歳ではなく、将来65歳に
   延長されている。

   早期退職しても、稼ぐ手を
   考えること

(3)お金の勉強をすること

   お金の稼ぎ方、使い方は、
   学校では教えてくれないので、
   来るべき将来に備え、お金に
   関する本を買って勉強すること
      
(4)早く結婚すること

   晩婚となると、住宅ローンや
   子供の育英資金などの工面が
   大変になる。

   遅くとも30歳代前半で結婚する
   よう考えること

(5)近い将来、便利なシステムが
   発明・開発、普及するので、
   勉強してビジネスを考えること

   近い将来、通信に関する便利な
   システムが発明・開発、普及する。

   このため、その仕掛けを使った
   ビジネスを乗っかり、不労所得を
   得て、子供に教え、引き継ぐこと

ブログ,格言

私の子供の口から孫に伝えて欲しい3つの
格言は下記です。

(1)時間拘束される労働収入では
   決して幸せになれない。

   時間拘束される労働は、
   どうしても給料という報酬に
   なるので労働市場価格で
   給料が決まってしまう。

(2)確実に不労所得で稼げる資産を持て!

   例えば、不動産所得やインターネットに
   よる情報資産、権利収入などの資産を
   持つことで不労所得を得るのが懸命。

(3)人生には学校で教えてくれないお金の使い方、
   稼ぎ方の勉強が必要だ。

   海外ではお金の持つ意味、使い方および
   稼ぎ方を学校で教えてくれるが日本では、
   学校で教えてくれない。
   自分で、勉強すべきだ!   

ブログ,マイストーリー

私は、ヒトのいうことを安易に信用した
ばっかりに商品の代金を支払う羽目に
なったり、借金を踏み倒されました。

私は会社の寮にいたときに、寮監から
自分が持っていた市販品の絵が
欲しいと言われ、取り寄せました。

大した額ではなかったのですが
翌月に寮監が他の寮に異動することが
わかり、直接寮監に請求したのですが、
絵の代金を払ってもらえず、
踏み倒され、商品の代金を支払いました。

親しいヒトでなければ、

(1)商品の取り寄せなど仲介をしない。
(2)商品が欲しいのであれば、仲介せず、
   販売元と直接取り引きさせる。

という2つの教訓を学びました。

2回目は、仕事上親しいヒトから、
その親しい友人が車で事故ってしまい、
保険が使えないので、車の修理代30万円を
貸してほしいと言われ、貸しました。

このときにはまだ、独身で金銭に余裕が
あったので、返せるときに返して欲しいと
言いましたが、未だ30万円の返済はありません。

このときには、下記2つの教訓を学びました。

(1)借金に関しては、毅然と断る。
(2)どうしてもというときには、
   借用書と保証人を立たせて、
   借用書を書かせる。

ブログ,マイストーリー

2006年(平成18年)4月に
元いた部署に戻り、再び、記憶装置製品の
サポートサービス(ヘルプデスク)を
担当することになりました。

グローバル企業に対する英語メール対応と
日立製品全般のお客様からのお問い合わせ
窓口の一本化の商品開発を行いました。

記憶装置製品のサポートサービス事業運営
管理および運用の全体把握を行いました。

また、サポート契約管理舞台の立ち上げ
および整備やお問い合わせ窓口部隊の
立ち上げおよび整備を行いました。

夜間休日の緊急対応案件の設計への
エスカレーションおよび問い合わせ窓口への
設計からの回答内容の伝達および詳細な説明を
行いました。

この仕事の担当したのは、2015年(平成27年)
3月までです。

2015年(平成27年)4月からは、クラウド
プラットフォームサービス商品の広報および
教育に従事しました。

2015年(平成27年)6月に事業部の業績不振に
よる早期退職の募集があり、色々と考えた末、
2015年(平成27年)9月末に早期退職することを
決意し、退職しました。

ブログ,マイストーリー

2000年(平成12年)4月の中旬に
突然、上司である担当部長(副部長)に
応接室まで来るように言われました。

応接室に待っていたのは、当時の
部長と応接室に来るようにと指示した
担当部長でした。

応接室に入ると重苦しい雰囲気に
なり、担当部長から事業部の業績が
振るわないので、他の事業部に
異動して欲しいと言われました。

移動先は新川崎の
システム・エンジニア(SE)の
事業部に異動する話でした

小生は、静岡県沼津市の自宅から
通う予定で、遠いので新幹線通勤が
条件ということを話しました。

それでもいいというので、
とりあえず、先様の事業部の面接が
あるので、5月連休前に面接を受けて
欲しいとのことでした。

5月連休前に事業部の面接を受けた
ところ、なんと2人の面接官の内の
1人は、顔見知りで以前のシステム開発
研究所の勤労課にいた主任さんでした。

面接時に、システム・ソフト開発実習員で、
小田原工場から派遣されていたということを
話すと、その顔見知りの方は小生を
思い出してくれました。

面接結果はもちろん合格で、5月連休明けに
上司である担当部長より、6月6日から
赴任するように示達がありました。

ところが、5月連休明けに突然もう一度、
当時の上司である部長と担当部長に
応接室に来るように言われました。

そこでの話は、1月に同じ敷地内にできた
新しい事業部に6月6日付けで異動して
欲しいとのことでした。

後からわかったことですがSEとして
異動する方が小生含めて20人位いた
のです。

しかし、記憶装置を詳しく知っている
人間である小生他2,3人をSEとして
異動させてしまうとまずいと
いう部長の判断で、新しい事業部に
異動ということになりました。

異動した最初に仕事は、Oracleという
データベースソフトを使用した無停止
データバックアップソリューションの
商品化でした。

7月に入ると、上司である部長から、
「英語ができるか?」と聞かれ、
「できません」と答えました。

7月中旬に記憶装置製品のサポートサービス
(ヘルプデスク)を担当している主任が
8月に退職するということになりました。

最初は英語ができる別の方が
後釜だったのですが、前出の英語が
できないということが決め手となり、
小生がその後釜となりました。

2000年(平成12年)8月より、
2004年(平成16年)9月まで、
記憶装置製品のサポートサービス
(ヘルプデスク)を担当することに
なりました。

この時期から、新規事業として、
記憶装置製品のハードウェア保守窓口と
ソフトウェアサポート窓口(ヘルプデスク)の
2つに分かれていた窓口の一本化を責任者と
して行いました。

その後、記憶装置製品のサポート(ヘルプデスク)
窓口の実務責任者として、サポートサービス
商品の開発、サポート体制の強化、事業の
お金の収支管理を担当しました。

また、お客様からのクレーム対応を行い、
いろんな業種のお客様のところに、
お詫びに行きました。

ひとえに、当時の部長、課長のご支援や
系列会社を含めた関連会社のご協力の
賜物というしかありません。

私事では、2001年(平成13年)1月に娘が誕生、
2003年6月に息子が誕生しました。
女房からは出産の立会いを言われていましたが、
仕事関係で出産の立会いができませんでした。

記憶装置の製品品質・お客様の対応が悪いと
いうことをあるお客様より指摘をされて、
2004年(平成16年)10月より、臨時職制が
引かれることになり、元いた事業部に
異動になりました。

担当した仕事は、重要顧客の販売から
製品トラブル解決まで面倒をみる
アカウントマネージャーでした。

5つほどの重要顧客を担当しました。

アカウントマネージャの仕事は、
2006年(平成18年)3月まで担当していました。

2006年(平成18年)4月以降の
マイ・ストーリーは社会人編その3として、
書いていきます。

ブログ,マイストーリー

大学卒業後、1984年(昭和59年)に
某総合電機メーカーH社に
入社しました。

2週間の新人集合研修が終了後、
各工場に配属されました。

入社前年にIBMスパイ事件があり、
ソフトウェアの危機が叫ばれて
いた中で、ソフトウェア工場を
第一希望にしました。

しかし、第二希望である
ストレージ専門工場である
小田原工場への配属でした。

配属後、1週間の新人研修後、
2ヶ月間の現場実習に入りました。

5月の連休後のある日、勤労課に
呼び出されました。

何かやってしまったかと思い、
ビクビクしていたところ、
勤労課の主任から君はもう配属が
システム設計部に決まっている。

ついては、7月21日から
システム開発研究所にシステム・
ソフト開発(SS)実習員として、
1年間行って欲しいと告げられました。

7月20日に配属先の上司への挨拶も
そこそこに、システム開発研究所へ
赴任しました。

システム開発研究所では、
コンピュータの基礎知識から
ソフトウェア理論、ソフトウェアの
設計からテストに至るまで
叩き込まれました。

毎週1回、4時間位教育があり、
宿題が出されて、レポートを
毎週提出するという忙しい日々を
過ごしました。

また、SS実習では、製品開発のための
シミュレーターを設計・開発し、
メインフレームのアセンブラで
4.5Kステップ、マルチタスク動作で
完成させました。

1985年(昭和60年)7月21日に
小田原工場に帰任し、1989年(平成元年)
3月までカートリッジ型マグネティック
テープ(MT)を動作させる制御プログラムの
開発・保守に従事しました。

私が担当したところは、この中の
MTドライブを制御、テープ上の
フォーマットをチェックする
制御プログラムです。

そのプログラムは専用アセンブラで、
MTドライブを制御する部分の
4.5Kステップを作成しました。

テープフォーマットをチェックする
部分は他の担当者が作成し、私と
取りまとめ者の3人でデバック、
テストを行いました。

新規開発のため、お手本がなく、
製品開発から製品出荷後の保守まで
苦労しました。

当時、平日は午前様、休日出勤も
当たり前という状態で、よく体が
持ったなと思います。

1989年(平成元年)4月より、
2000年(平成12年)6月まで、
メインフレーム向け半導体記憶装置の
制御プログラムの開発・保守に
従事しました。

最初は、ハイスピードアクセス機の
開発ということで、マイクロプロセッサへ
変更ということで、制御プログラムの
要件定義から設計・テスト・保守まで
一貫してプロジェクトの取りまとめを
しました。

この次の製品として、光インタフェースの
サポートも一貫してプロジェクトの
取りまとめを担当しました。

半導体記憶装置は、社外事故も多く、
社外事故対策もすべての機種を
担当しました。

1994年(平成6年)4月より、
半導体記憶装置の制御プログラムの
保守を担当するかたわら、大型RAIDの
お客様対応、装置の動作検証、
一部機能の制御プログラムの開発を
担当しました。

2000年(平成12年)2月に女房と
結婚しました。

2000年6月以降のマイ・ストーリーは
社会人編その2・その3として、
書いていきます。

ブログ,マイストーリー

私の小学生の低学年時代について、書きます。

小学校は、沼津市立第五小学校に
入学しました。

1年生、2年生とも4組で、
北条節子先生という女性の担任でした。

その先生の印象は、ぽっちゃりした
インテリという感じでした。

今でいう、サンデーモーニングの
スポーツコーナーに出演している
「唐橋ユミ」さんのよう感じです。

当時は木造モルタル校舎で、ちょっと
暗い感じの雰囲気でした。

この頃の一番の思い出は、
この場で言うのもお恥ずかしい話ですが、
1年生の時に授業中にもようし、
耐え切れずにXXしてしまったことです。

XXの部分は、想像にお任せします。

家が近かったので直ぐに、
祖母が学校に呼ばれ、早退しました。

このことで、当時友達から
いじれられることはありませんでした。

また、2年生の時に、
三島にある楽寿園に両親、妹と行き、
川遊びをしていました。

バランスを崩し、転んでずぶ濡れになり、
帰宅したことを覚えています。

この頃から、よく母からの実家に
行くようになり、母からの祖父が
当時の国鉄に専務車掌として、
勤務のからわら、よく来たと
言って髪の毛を切ってもらった
ことを今の事のように思い出します。

次回からは、マイストリーは、
1~2週間に1度の投稿、
名言、格言について、
2~3日に1度の頻度で、
投稿していきます。

次回のマイ・ストーリーは、
小学生の中学年時代について、
書いていきますね。

ブログ,マイストーリー

私の幼少期について、書きます。

幼少期は実を言うとあまり記憶に無いのが
本心です。祖父母や両親が言っていたことが
中心になります。

私は現在、沼津市内にある私立幼稚園に
昭和40年(1965年)に入園し、
昭和43年(1968年)に卒園しました。

入園時は、年少さんクラスのもも組でした。
この頃は体も弱く、よく風邪を引いて、
近くのかかりつけの病院に行っていたそうです。

ある日、風邪をこじらせて、膿胸という病気に
罹患し、3ヶ月程度沼津市立病院の小児科に
入院していたそうです。

私の人生の中で、これが最初の大病でした。

年中さんのクラスは、すみれ組で、
きらい先生という女性の先生だったことを
記憶しています。

年中さん時代はよく同じクラスの友達と
遊具で遊んでいたことは覚えています。

年長さんのクラスは、すぎ組で、
人数が多く、担任が2名でした。
その担任は、比較的年のいった西野先生と
若い渡辺先生でした。

若い渡辺先生をいじめて、よく泣かした
ことを今でもよく覚えています。

高校時代くらいになってわかったことですが、
実は、西野先生がなくなった時に両親から
聞かされたのですが、私の母方の伯父の
姉(親戚だった)ということを知りました。

また祖母と両親のすすめもあり、
園長先生が、やっていた絵画教室に行き、
一向に上達せず、絵を書いていました。

一方、近所では、ガキ大将がおり、
いじめられっ子でした。

次は、小学生の低学年時代について、
書きますね。

ブログ,マイストーリー

私の高校生から大学生時代について、
書きます。

小生、1977年(昭和52年)に
沼津市立沼津高校に入学・卒業しました。

沼津市立沼津高校は、戦後の混乱期にあって、
「日本を、そして沼津を立て直すには教育を
おいてほかにない 」という当時の
石内直太郎初代校長等の熱意のもと開校されました。

以来、困難に立ち向かう勇気と行動力を持つ、
たくましい個性的な人づくりをめざす象徴的な
言葉として、「求道(ぐどう)」を校訓と
しています。

男女共学で、比較的自由な雰囲気のある
学校です。

今は、普通科しかありませんが、
小生が入学した当時は、普通科(5クラス)の他に、
商業科(2クラス)、衛生看護科(1クラス)という
形でした。

当然、普通科は男女半々くらい、商業科は
90%くらいが女子、衛生看護科は、クラス全員が
女子でした。

1年生のときは3組で、担任は湊先生という
メタボリックの体型をした世界史の
先生でした。

1学期の中間テストが終わって、順位発表が
あった後、湊先生に職員室に突然呼び出され、
こう怒られました。

「お前の入試の成績は、一桁台の順位なのに、
今回の成績(30番代)は不甲斐ないね。
何やってんだ!部活に集中して、勉強しなかった?
次の期末は、ネジを巻き直して、頑張るんだぞ!」と…

部活は中学から続けていた卓球部に入部しました。

入試がそんないい成績だったとはつゆ知らず、
普通に勉強していたつもりでした。

1学期の期末テストは、頑張って勉強し、
10番代に入りました。

卓球部では、3年生が引退すると
追い出しコンパを開催するという
慣例があります。

今だから言えますが、一次会は某焼き鳥屋さんの
離れを借り、先輩からBやWをたらふく飲まされて、
沼津駅南口の地下道をみんなで歩き、
先輩の家へ行って、ゆっくりして帰りました。

2年生のときは4組で、担任は鈴木一行先生という
日本史の先生でした。

この時は、普通科は1年生から3年生まで
全員統一したカリキュラムでしたが、
進学校に移行するというお題目があり、
2ヶ月間の幻(暫定)のクラスでした。

普通科は理系・文系に分けたカリキュラムに
移行するということを1月の3月くらいに
説明がありました。

小生は、幻のクラスで、じゃんけんに弱かったという
運もあり、班長になったのはいいのですが、
またまた運の悪いことにじゃんけんに負けて、
学級委員長になってしまいました。

当時は、中だるみもあり、昼一番の午後の授業は、
たいへん眠く、特に英語の文法の授業のときなどは、
90%以上の生徒が寝ている状態でした。

この時の英語の文法の担当の先生は、後の3年生の
担任になる小林吉房先生でした。

この時は、ほとんど全員の生徒が寝ていて、
先生が教壇の上に置いてあったカセットレコーダーの
影で泣いていたというエピソードがあります。

さて、小生は理系クラスを選択しました。

2ヶ月たった後のクラス替えで、2組になり、
担任は今は亡き、数学担当の水上先生でした。

この時のクラスは、全員男子でした。

水上先生は熱心に数学ⅡB、数学Ⅲを
教えてくれました。

テストの集計は理系・文系分かれて行い、
順位も理系・文系で分けて、示されました。

いつも理系の1番は、カリキュラムの関係で
名古屋から転校してきた同級生で、小生は
いつも理系の上位にいました。

3年生が部活を引退すると、中学と同じく、
卓球部の部長を任(まか)されました。

3年生になると1組になり、担任は前出の
小林先生でした。

この時のクラスは、大部分が男子でしたが、
女子が3名いました。

部活も高体連が終わると引退ですが、
9月ぐらいまでは、卓球部顧問の先生の了解を得て、
後輩の指導をしていました。

授業は、教科書の内容は前日の夜予習し、
その後、ラジオで大学受験講座を聞くといった
受験勉強をしていました。

小生は国公立大学受験という方針を
担任の先生に伝えていました。

当時は共通一次試験の2年目ということで、
共通一次試験を受験しました。

当時の平均点は612点で、自己採点結果は
594点でした。

とにかく、私立大学を7校ぐらい受験して、
合格したのが東洋大学工学部でした。

「合格したからまあいいや」と思っていたところ、
担任の小林先生が突然自宅にやってきました。

先生は秋田大学の鉱山学部の2次試験が
東京(東海大学の代々木キャンパス)で受けれるから
受けてみないかと言われ、ダメ元で受けてみることに
しました。

秋田大学の鉱山学部(電子工学科)の2次試験を
受けてみたものの、自分の感触では五分五分でしたが、
合格発表を見に行ったところ、見事に合格していました。

1980年(昭和55年)に秋田大学鉱山学部電子工学科
(現秋田大学理工学部数理・電気電子情報学科)に
入学し、1984年(昭和59年)に卒業しました。

1,2年生は、一般教育主体で、第一外国語だけで
3年生に進級できたので、不得意な英語の単位を取らず、
ドイツ語をのみを選択して、週休2日にしました。

大学が電気主任技術者の資格の認定校になっていたので、
この資格を取るための素地を作っておきたくて、
電気主任技術者認定単位の科目をすべて受講しました。

おかげさまで、電気主任技術者認定単位の科目の
すべての単位をとりました。

中でも一番難しかったのが、電気機器Ⅰという科目で、
なかなか単位が取れないで有名なのですが、
1回目の追試で単位を取れました。

1年生の3ヶ月間は下宿で過ごしましたが、
支払っている額の割に待遇が悪いので、
下宿をでてアパートの2階の部屋を借りて、
移りました。

1年生の夏休みは、前々から指摘されていた膿胸の
膿の取り残しを除去をするため、手術入院をしました。

手術の際、輸血用血液を提供してほしいと言われて、
困っていたところ、病院で知り合った外科で同室の
患者さんの奥さんを通じて、息子さんふたりから
血液の提供を受けたことに今も感謝しています。

また、アパートの鍵を部屋に残して、
鍵をかけてしまい、部屋に入れなくなったときに、
たまたま自宅を建て替えるために仮住まいで
引越してきた隣のご夫婦に電話を貸して頂き、
事なきを得たことも感謝しています。

1年生の冬は、秋田としては珍しく、
雪が1メートル位つもり、零下20度位まで
行き、厳しい冬を過ごしました。

この時は氷ドメがあるのを知ってはいましたが、
不注意で経験したことがない水道の凍結を何回もやって、
1時間から2時間の間、水道の蛇口にお湯をかけて、
水を出した苦労は忘れません。

苦労した1年が終わり、2年生になったときに
近くのアパートの1階に移りました。

2年生、3年生は学生生活も慣れたせいか、
下宿にいた友達や大学で知り合った友達と
週末に自宅アパートでの宴会、
お金に余裕がある時には旭川通りという
繁華街に繰り出して週末飲んでいました。

4年生になると卒論のため、研究室に入らなければ、
なりませんでした。

競争率が高かったのですが、
液晶や薄膜の研究をしていた佐藤進教授の
研究室になりました。

研究テーマは、「WO3-MO3化合物薄膜における
エレクトロクロミックの研究」でした。

専用の真空蒸着機を与えてもらい、
蒸着条件をつかむのに苦労しました。

このときには、お昼直前に日本海中部地震が
発生し、急遽研究室に戻り、動いていた
真空蒸着機を止めたエピソードがあります。

その時は、4階にある研究室の本棚から、
本が飛び出して散乱している状態でした。

お陰さまで、研究は成果が出て、無事卒論は
パスしました。

卒論の指導教官であり、就職担当でもある
佐藤教授と、夏休み前に進路面談がありました。

このときに、小生は就職希望でしたが、
佐藤教授から「君は成績優秀なので、
秋田大学の大学院ではなく、東北大学の
大学院を受験してみてはどうか?」と言われ、
9月に受験しました。

見事、不合格でしたが、教授から
「その後どうする?」と聞かれ、
「大企業への就職がいい」と答えました。

「H社とM社があるけどどうする?」と聞かれて、
M社は学生実習で行った事があるので答えに
渋っていると、「じゃあ、H社でいいね」と
いうことであっさり決まってしまいました。

H社は、お定まりの入社試験ですが、
人物面接と技術面接があり、
技術面接では、入社試験で間違えた問題を
黒板に板書きでリカバリさせられました。

1週間後に電話で教授あてにH社から
採用通知がありました。

また、卒業時には、大学で卒業式と、
場所を変えてホテルで大学の同窓会
入会式があるのです。

ホテルで行われた大学の同窓会入会式で
電子工学科の成績優秀者として表彰され、
賞状と記念の時計を頂きました。

次回のマイ・ストーリーは、
社会人時代(その1)について、
書いていきますね。