ブログ,季節

今日(2022年5月21日)は、24節季の小満ですね。
小満は、万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来るころ。
太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節です。
ようやく暑さも加わり、麦の穂が育ち、山野の草木が実をつけ始め、
紅花が盛んに咲き乱れます。
梅の実がなり、西日本では、走り梅雨がみられる頃。
田植えの準備を始める頃でもあります。

・6月1日は衣替えですので、この頃から夏服の準備を整えておきましょう。

コラム
走り梅雨
本格的な梅雨に入る前のぐずつく天候のこと。
通常は、この後晴れた日が続き、その後本格的な梅雨(つゆ)に入ります。
「梅雨の走り」ともいいます。

ブログ,プログラミング

プログラミングスキルについて、
最初にお伝えすることが2つあります。
・プログラミングの基本スキルは、
 皆さんや次の世代(現在の子供世代)に
 とっては必要不可欠なスキルになります。
・この必須のスキルは、少し学べば
 すべての人が必ず習得できます。
テクノロジーの進化は誰にも止めることが
できません。
IoT(Internet Of Things)、人工知能などの
新しいテクノロジーは日々、皆さんの
生活の重要な部分に変化をもたらしています。
そのような時代の中で私たちにできることは、
日々進化し続けるテクノロジーとどのように
付き合っていくかを選択することです。
使われる側になるのか、使う側になるのか、
創る側になるのかは、皆さんの選択次第です。
「使われる側」以外の選択肢を選ぶのであれば、
プログラミングの基本スキルは必須です。

ブログ,マイストーリー

私が死ぬまでにやりたいことは下記の
5つのことです。

(1)思う存分海外旅行をしたい

   今まで、海外は、アメリカの
   カルフォルニア州サンノゼ
   (通称:シリコンバレー)、
   シンガポール、タイの
   プーケットの3箇所に行った
   ことしかないので、色々な
   国々に行きたい

(2)思う存分国内旅行をしたい

   今まで、東北・関東・東海・
   関西・山陽・九州北部以外の
   場所は、旅行に行ったことが
   ないので、行かなかった
   場所にゆっくりと旅行したい。
   

(3)親から引き継いだ財産を
   子供達にそのまま引き継ぐ

   親から引き継いだ財産を
   取り崩さすにそのまま
   子供達に引き継ぐ

(4)私の財産を子供に引き継ぐ

   大した財産がありませんが、
   今ある不労所得所得も含めた
   財産を私の子供達に引き継ぐ

(5)今までの私の人生経験を
   子供達に引き継ぐ

   これまでの私が経験した
   人生経験や親から聞いた
   話を子供達に話をして、
   引き継ぐ。

ブログ,マイストーリー

タイムマシンで過去に戻って高校生の私に
アドバイスしたい5つのことは以下に示す
ことです。

(1)高校時代にはもっと勉強すること

   高校時代にもっと勉強しておけば
   良かったという後悔がある。

(2)会社は定年まで面倒を見てくれない

   年功序列が崩れて、成果主義に
   なるため、定年60歳まで会社に
   いれるかわからない。

   下手すると、年金支給が定年の
   60歳ではなく、将来65歳に
   延長されている。

   早期退職しても、稼ぐ手を
   考えること

(3)お金の勉強をすること

   お金の稼ぎ方、使い方は、
   学校では教えてくれないので、
   来るべき将来に備え、お金に
   関する本を買って勉強すること
      
(4)早く結婚すること

   晩婚となると、住宅ローンや
   子供の育英資金などの工面が
   大変になる。

   遅くとも30歳代前半で結婚する
   よう考えること

(5)近い将来、便利なシステムが
   発明・開発、普及するので、
   勉強してビジネスを考えること

   近い将来、通信に関する便利な
   システムが発明・開発、普及する。

   このため、その仕掛けを使った
   ビジネスを乗っかり、不労所得を
   得て、子供に教え、引き継ぐこと

ブログ,格言

私の子供の口から孫に伝えて欲しい3つの
格言は下記です。

(1)時間拘束される労働収入では
   決して幸せになれない。

   時間拘束される労働は、
   どうしても給料という報酬に
   なるので労働市場価格で
   給料が決まってしまう。

(2)確実に不労所得で稼げる資産を持て!

   例えば、不動産所得やインターネットに
   よる情報資産、権利収入などの資産を
   持つことで不労所得を得るのが懸命。

(3)人生には学校で教えてくれないお金の使い方、
   稼ぎ方の勉強が必要だ。

   海外ではお金の持つ意味、使い方および
   稼ぎ方を学校で教えてくれるが日本では、
   学校で教えてくれない。
   自分で、勉強すべきだ!   

ブログ,マイストーリー

私は、ヒトのいうことを安易に信用した
ばっかりに商品の代金を支払う羽目に
なったり、借金を踏み倒されました。

私は会社の寮にいたときに、寮監から
自分が持っていた市販品の絵が
欲しいと言われ、取り寄せました。

大した額ではなかったのですが
翌月に寮監が他の寮に異動することが
わかり、直接寮監に請求したのですが、
絵の代金を払ってもらえず、
踏み倒され、商品の代金を支払いました。

親しいヒトでなければ、

(1)商品の取り寄せなど仲介をしない。
(2)商品が欲しいのであれば、仲介せず、
   販売元と直接取り引きさせる。

という2つの教訓を学びました。

2回目は、仕事上親しいヒトから、
その親しい友人が車で事故ってしまい、
保険が使えないので、車の修理代30万円を
貸してほしいと言われ、貸しました。

このときにはまだ、独身で金銭に余裕が
あったので、返せるときに返して欲しいと
言いましたが、未だ30万円の返済はありません。

このときには、下記2つの教訓を学びました。

(1)借金に関しては、毅然と断る。
(2)どうしてもというときには、
   借用書と保証人を立たせて、
   借用書を書かせる。

ブログ,マイストーリー

2006年(平成18年)4月に
元いた部署に戻り、再び、記憶装置製品の
サポートサービス(ヘルプデスク)を
担当することになりました。

グローバル企業に対する英語メール対応と
日立製品全般のお客様からのお問い合わせ
窓口の一本化の商品開発を行いました。

記憶装置製品のサポートサービス事業運営
管理および運用の全体把握を行いました。

また、サポート契約管理舞台の立ち上げ
および整備やお問い合わせ窓口部隊の
立ち上げおよび整備を行いました。

夜間休日の緊急対応案件の設計への
エスカレーションおよび問い合わせ窓口への
設計からの回答内容の伝達および詳細な説明を
行いました。

この仕事の担当したのは、2015年(平成27年)
3月までです。

2015年(平成27年)4月からは、クラウド
プラットフォームサービス商品の広報および
教育に従事しました。

2015年(平成27年)6月に事業部の業績不振に
よる早期退職の募集があり、色々と考えた末、
2015年(平成27年)9月末に早期退職することを
決意し、退職しました。

ブログ,マイストーリー

2000年(平成12年)4月の中旬に
突然、上司である担当部長(副部長)に
応接室まで来るように言われました。

応接室に待っていたのは、当時の
部長と応接室に来るようにと指示した
担当部長でした。

応接室に入ると重苦しい雰囲気に
なり、担当部長から事業部の業績が
振るわないので、他の事業部に
異動して欲しいと言われました。

移動先は新川崎の
システム・エンジニア(SE)の
事業部に異動する話でした

小生は、静岡県沼津市の自宅から
通う予定で、遠いので新幹線通勤が
条件ということを話しました。

それでもいいというので、
とりあえず、先様の事業部の面接が
あるので、5月連休前に面接を受けて
欲しいとのことでした。

5月連休前に事業部の面接を受けた
ところ、なんと2人の面接官の内の
1人は、顔見知りで以前のシステム開発
研究所の勤労課にいた主任さんでした。

面接時に、システム・ソフト開発実習員で、
小田原工場から派遣されていたということを
話すと、その顔見知りの方は小生を
思い出してくれました。

面接結果はもちろん合格で、5月連休明けに
上司である担当部長より、6月6日から
赴任するように示達がありました。

ところが、5月連休明けに突然もう一度、
当時の上司である部長と担当部長に
応接室に来るように言われました。

そこでの話は、1月に同じ敷地内にできた
新しい事業部に6月6日付けで異動して
欲しいとのことでした。

後からわかったことですがSEとして
異動する方が小生含めて20人位いた
のです。

しかし、記憶装置を詳しく知っている
人間である小生他2,3人をSEとして
異動させてしまうとまずいと
いう部長の判断で、新しい事業部に
異動ということになりました。

異動した最初に仕事は、Oracleという
データベースソフトを使用した無停止
データバックアップソリューションの
商品化でした。

7月に入ると、上司である部長から、
「英語ができるか?」と聞かれ、
「できません」と答えました。

7月中旬に記憶装置製品のサポートサービス
(ヘルプデスク)を担当している主任が
8月に退職するということになりました。

最初は英語ができる別の方が
後釜だったのですが、前出の英語が
できないということが決め手となり、
小生がその後釜となりました。

2000年(平成12年)8月より、
2004年(平成16年)9月まで、
記憶装置製品のサポートサービス
(ヘルプデスク)を担当することに
なりました。

この時期から、新規事業として、
記憶装置製品のハードウェア保守窓口と
ソフトウェアサポート窓口(ヘルプデスク)の
2つに分かれていた窓口の一本化を責任者と
して行いました。

その後、記憶装置製品のサポート(ヘルプデスク)
窓口の実務責任者として、サポートサービス
商品の開発、サポート体制の強化、事業の
お金の収支管理を担当しました。

また、お客様からのクレーム対応を行い、
いろんな業種のお客様のところに、
お詫びに行きました。

ひとえに、当時の部長、課長のご支援や
系列会社を含めた関連会社のご協力の
賜物というしかありません。

私事では、2001年(平成13年)1月に娘が誕生、
2003年6月に息子が誕生しました。
女房からは出産の立会いを言われていましたが、
仕事関係で出産の立会いができませんでした。

記憶装置の製品品質・お客様の対応が悪いと
いうことをあるお客様より指摘をされて、
2004年(平成16年)10月より、臨時職制が
引かれることになり、元いた事業部に
異動になりました。

担当した仕事は、重要顧客の販売から
製品トラブル解決まで面倒をみる
アカウントマネージャーでした。

5つほどの重要顧客を担当しました。

アカウントマネージャの仕事は、
2006年(平成18年)3月まで担当していました。

2006年(平成18年)4月以降の
マイ・ストーリーは社会人編その3として、
書いていきます。

ブログ,マイストーリー

大学卒業後、1984年(昭和59年)に
某総合電機メーカーH社に
入社しました。

2週間の新人集合研修が終了後、
各工場に配属されました。

入社前年にIBMスパイ事件があり、
ソフトウェアの危機が叫ばれて
いた中で、ソフトウェア工場を
第一希望にしました。

しかし、第二希望である
ストレージ専門工場である
小田原工場への配属でした。

配属後、1週間の新人研修後、
2ヶ月間の現場実習に入りました。

5月の連休後のある日、勤労課に
呼び出されました。

何かやってしまったかと思い、
ビクビクしていたところ、
勤労課の主任から君はもう配属が
システム設計部に決まっている。

ついては、7月21日から
システム開発研究所にシステム・
ソフト開発(SS)実習員として、
1年間行って欲しいと告げられました。

7月20日に配属先の上司への挨拶も
そこそこに、システム開発研究所へ
赴任しました。

システム開発研究所では、
コンピュータの基礎知識から
ソフトウェア理論、ソフトウェアの
設計からテストに至るまで
叩き込まれました。

毎週1回、4時間位教育があり、
宿題が出されて、レポートを
毎週提出するという忙しい日々を
過ごしました。

また、SS実習では、製品開発のための
シミュレーターを設計・開発し、
メインフレームのアセンブラで
4.5Kステップ、マルチタスク動作で
完成させました。

1985年(昭和60年)7月21日に
小田原工場に帰任し、1989年(平成元年)
3月までカートリッジ型マグネティック
テープ(MT)を動作させる制御プログラムの
開発・保守に従事しました。

私が担当したところは、この中の
MTドライブを制御、テープ上の
フォーマットをチェックする
制御プログラムです。

そのプログラムは専用アセンブラで、
MTドライブを制御する部分の
4.5Kステップを作成しました。

テープフォーマットをチェックする
部分は他の担当者が作成し、私と
取りまとめ者の3人でデバック、
テストを行いました。

新規開発のため、お手本がなく、
製品開発から製品出荷後の保守まで
苦労しました。

当時、平日は午前様、休日出勤も
当たり前という状態で、よく体が
持ったなと思います。

1989年(平成元年)4月より、
2000年(平成12年)6月まで、
メインフレーム向け半導体記憶装置の
制御プログラムの開発・保守に
従事しました。

最初は、ハイスピードアクセス機の
開発ということで、マイクロプロセッサへ
変更ということで、制御プログラムの
要件定義から設計・テスト・保守まで
一貫してプロジェクトの取りまとめを
しました。

この次の製品として、光インタフェースの
サポートも一貫してプロジェクトの
取りまとめを担当しました。

半導体記憶装置は、社外事故も多く、
社外事故対策もすべての機種を
担当しました。

1994年(平成6年)4月より、
半導体記憶装置の制御プログラムの
保守を担当するかたわら、大型RAIDの
お客様対応、装置の動作検証、
一部機能の制御プログラムの開発を
担当しました。

2000年(平成12年)2月に女房と
結婚しました。

2000年6月以降のマイ・ストーリーは
社会人編その2・その3として、
書いていきます。

ブログ,マイストーリー

私の小学生の低学年時代について、書きます。

小学校は、沼津市立第五小学校に
入学しました。

1年生、2年生とも4組で、
北条節子先生という女性の担任でした。

その先生の印象は、ぽっちゃりした
インテリという感じでした。

今でいう、サンデーモーニングの
スポーツコーナーに出演している
「唐橋ユミ」さんのよう感じです。

当時は木造モルタル校舎で、ちょっと
暗い感じの雰囲気でした。

この頃の一番の思い出は、
この場で言うのもお恥ずかしい話ですが、
1年生の時に授業中にもようし、
耐え切れずにXXしてしまったことです。

XXの部分は、想像にお任せします。

家が近かったので直ぐに、
祖母が学校に呼ばれ、早退しました。

このことで、当時友達から
いじれられることはありませんでした。

また、2年生の時に、
三島にある楽寿園に両親、妹と行き、
川遊びをしていました。

バランスを崩し、転んでずぶ濡れになり、
帰宅したことを覚えています。

この頃から、よく母からの実家に
行くようになり、母からの祖父が
当時の国鉄に専務車掌として、
勤務のからわら、よく来たと
言って髪の毛を切ってもらった
ことを今の事のように思い出します。

次回からは、マイストリーは、
1~2週間に1度の投稿、
名言、格言について、
2~3日に1度の頻度で、
投稿していきます。

次回のマイ・ストーリーは、
小学生の中学年時代について、
書いていきますね。